脊振の森から

九州は脊振山の脊振村から、里山の暮らしを伝えます。

猟の季節。自然と暮らすということ。

 都会で暮らしていた頃は、自然との共生・融合、なんて素敵な言葉なんだと思っていた。もちろん今でもその気持ちに変わりはないが、とっても甘くない現実に向かい合って10数年、自然との融合の持つ意味が違ってきた。

 僕は「雨にも負けて風にも負けて、冬の寒さにはロケットを炊きまくり、夏の暑さには木陰をもとめ、草取りが嫌いだから自然農法(相方曰く、ほったら農法)とほざき、一日に5合の焼酎と山の恵みと味噌と玄米をいだき」暮らしている。そんな暮らしで、最も都会と違うのが、動物とのかかわりでした。

里山の現状は…

下の左は猪のぬた場の森、右は猪の巣です。

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 村人の数より、猪の世帯数が遥かに多い、多い。そして奴らは、平気で我家の畑を、タケノコ山を、田んぼを、庭を荒らす、荒らす。純血の猪より、どうやら「イノブタ」に近い奴らだ。越してきたばかりの頃、せっかく造ったハーブの苗畑を何度もなんどもやられた。稲刈り直前の縄文の田んぼを、全部やられました。

 生産組合が総出で猪メッシュを何十Km張ろうとも、なんて事ない。我家は愛犬が住むようになってから、おかげで庭を荒らされることはなくなったが、でも台所裏の堆肥コーナーなんてしょっちゅう猪食堂だ。

 夜明けとともに朝は鳥の群れの鳴き声で起こされる。コゲラに家をドラミングされる。薪の中でマムシがとぐろを巻いている、台所を沢ガニが散歩している、大きなムカデが熱い風呂に先に入っている、山暮らし、そんなことは承知の助。しかし猪だけは、明らかに人的被害なんです。

 野生動物の保護、里山の生き物との共存、…猪だけは、野生動物ではないんだと思う。猟のための人為的な拡大(生け捕りにして、あっちの山に放そう、そうすりゃ俺たちの遊び場が増える)、猟のための瓜ボウの放牧(もうちょっと大きくしてから鉄砲でうとうや)、里山の家族の崩壊etc。さまざまな理由で、きゃつらは今も増え続けている。

その命をいただく、という事。

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 そんなんで、今年もせっせと猪を捕まえる。集落では「猪戦争」と呼び、誰もが「勝てるはずのない戦争」だとあきらめる。

 山に来て、肉をいただく場合は、自分でしめて(殺して)捌く機会が増えている。スーパーで切り身を買うのではなく、一頭から自分で切り分けていただくのだ。

 いくらニック気イノシシだろうが、命は命。命を奪うものとして、丁寧に解体していただきたいもの。自分で解体して肉をいただくのであって、他人から解体肉をもらってたんじゃ、スーパーと同じだ。もちろん都会の友人達は、そんな現場を知った上で肉を喰ってほしい。マンションのシステムキッチンで猪を捌けってのが、どだい無理だろう。…中には台所で猪を解体している気丈なお嬢様もいらっしゃるが(笑・尊敬)。

 山の暮らしは、様々な生き物の命と直結している暮らしだろう。猪と暮らしながら、命の連鎖とバランスを、もう少し考えてみたい。

 今月に入って、2羽目の地鶏が我家にやってきた。まずはフライフィッシング用の毛をいただき、それからありがたく捌きながら、じいさんばあさん達と、何か猪利用ができないかと考えています。